沿革

孤立行政法人 トタン葺き機構 略歴

1976年 8月 吉平刷毛子 阿波(現徳島県)赤トタン屋根の家で生まれる。

1977年5月 松田茅太郎 津軽(現弘前市)黒トタン屋根の家で生まれる。


1980年ごろ 安全泰 幼少のころより、出雲の国(現奥出雲町) にある祖母の茅葺き邸に慣         れ親しむ


1982年9月 鉄葛島智子  遠江(現静岡県浜松市)の青トタンの家に転居。

1993年 篠原亜鉛 クラムボンの絵で埼玉県知事賞受賞。


1995年4月 安全泰 煩悩高等工業学校(現煩悩工業大学)入学。



1998年3月 伊藤塗志 農学校受験に失敗。この頃、海原雄山の知遇を得る(漫画の読みすぎ)。

1998年ごろ 篠原亜鉛 高校の合唱部で関東大会金賞受賞。


1999年4月 屋根田望美 教育系出版社に入社。琉球出身米国黒人歌謡曲集団(現沖縄アクターズクール)に傾倒。給料より旅費を捻出し、たびたび琉球をたずねる。南国特有のコンクリート民家に出会い、気候と民家構造の関係に関心をもちはじめる。


2000年4月 篠原亜鉛 武蔵野荒野美術学校工芸科(現武蔵野荒野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科)に入学。平面、空間、服飾など幅広い意匠・設計で活躍。


2002年4月 葺谷けい 広告代理店に入社。アート・トタンナーとして作陶を開始する。


2000年前半 清野たわし マネキン制作と決別。職場を去り独立。銭湯(現スパ)などの内装をてがけはじめる。


2003年ごろ 安全泰 やさぐれトタン(錆びたトタン)と小屋に関心を寄せはじめる。

2003年4月 松田茅太郎 日本放蕩協会に入会。ドキュメンタリートタンナーとして活躍しはじめる。渋谷円山町に移住。

2003年同月 伊藤塗志 このころより全国の職人に弟子入り行脚をはじめる。民芸運動に参加。


2004年7月 鉄葛島智子 映画宣伝会社に入社。媒体征伐を得意とする。


2005年4月 篠原亜鉛 電子製品会社に入社。製品意匠を担当し、大量生産品のカラーリングに疑問をもちはじめる。


2005年ごろ 曽我建築 ミスチルを介し草屋根に没頭。日本社会におけるスクラップ&ビルド思想を痛烈に批判。


2006年3月 現構員全員 スクリーングパッドデザインコミュニケーション学部入学 同級生としての交流がはじまる。


2006年5月  屋根田望美 津軽(現黒石市)を旅行。雪国の鮮烈なトタン屋根に出会う。東京に戻った後、学部生たちにしつこくトタン屋根について報告。


2006年同月  安全泰 観光目的で無理に保存する茅葺屋根に対し、生活に即したトタン葺きに注目して「トタブ」という概念を提唱。トタン葺き機構の前身となる民芸運動を起こした。


2006年6月 屋根田望美 当時学部生だったプラスチック工業社長の車をひっぱり出し、会津若松のトタン葺き集落見学へ。茅葺の上にトタンをかぶせる手法に出会う。日本家屋の伝統的な造形と近代的な素材の絶妙な融合と鮮烈な色彩に再び感銘をうける。


2006年同月 伊藤塗志 東京都内でトタン物件物色をはじめる。


2006年同月 安全、松田、曽我、葺谷、篠原、鉄葛島、屋根田で孤立行政法人トタン葺き機構設立。

2006年同月 葺谷 箔押し職人と出会い、縦葺きトタン屋根型名刺開発に熱中。現在特許申請中。

 

2006年同月 デザインコミュニケーション学部卒業式にて機構立ち上げ決起集会を開く。
村民全員でお互いの家の茅を葺いていた地域コミュニティーの二十一世紀型として、都内のもやしっこがトタン地方の屋根を塗りに行く運動をはじめることを決意。
学部より奨学金1万円をもらう。


2006年同月 学部生卒業旅行で北京上海へ。上海の人民居住区にて、屋根田が伊藤に入構をすすめ、加入。

2006年7月 機構設立後、初の研究活動開始。銀座の写真展にて、安全、屋根田が岩手県雫石カメラマン奥山氏に出会い、知遇を得る。


2006年同月 江戸湾(現東京湾)納涼水上遊覧 にて、清野と吉平が入構を決意、加入。


2006年同月 松田、協会内の定期異動により青森に着任。本格的に北東北を集中的に担当す。


2006年9月 岩手県雫石にて第1回トタン屋根塗り決行。 奨学金で安全帯購入するも使用せず。

 

2006年11月 デザインタイド出展。トタン小屋を実際ぬる行為を通し、お客様に生活基礎力akaクロマニヨン力の楽しさを実感していただく予定!